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達人インタビュー
奥原 宗典

外に出て始めて知った素晴らしさ。

奥原さんは、与那原町で200年近く赤瓦業を営む奥原製陶の4代目。小さい頃から家業を手伝い、高校生の頃にはすでに瓦職人として仕事をこなしていたそうですが、意識して瓦職になろうと決めたのは、20歳後半になってからだそうです。というのも、奥原さんは画家になりたくて、18歳の頃に単身台湾へ渡り水墨画の勉強をしていたとか。そんなある日、台湾の奥原さんのもとに「もう歳だし、瓦屋をやめようかと思う」と、お父さんが相談に来られました。当時、沖縄の赤瓦産業は消滅寸前。戦後、県内に60軒ほどあった瓦業者も、奥原製陶ただ1軒が残るだけになっていたのです。

「沖縄では、僕らが生まれる前の歴史とか文化とか風景写真とか、ほとんど資料がなかったの。そういうものを学校でも教えないし。ところが台湾には、日本統治時代の日本の資料が国立図書館などにいっぱいあって、そのなかに沖縄のもあったわけ。戦前の沖縄の風景は、我々の想像以上のもので、素晴らしいなぁというのを僕は向こうで発見した。親父が、自分が、小さい頃からやってきた瓦の仕事も、すごいことだったのだとわかったんだ」。最後の瓦屋であり、最後の職人であるお父さんがやめてしまったら、沖縄の赤瓦は終わってしまう。そんな大切な沖縄の宝を絶やしてはいけないと意を決した奥原さんは、瓦職人となるため日本へ戻り、家業を継いだのです。



首里城の瓦の色は十人十色。

瓦職人として再スタートを切った奥原さんのもとに、首里城復元の話が舞い込んだのは、それから10数年経ってからのことでした。しかし、200年前に建てられた首里城の赤瓦の色を、これだと断定できる人は誰もいません。首里城復元でもっとも苦労したのが、赤瓦の色だったと奥原さんは当時を振り返ります。
「小さい頃首里城で遊んだとか、住んでいたというお年寄りが集まって、色彩委員会とか彩色委員会とかがあったんだけど、ひとりは真っ黒という人もいるし、ひとりは灰色という人もいるし、赤かったという人もいる。10名が全部違ってた」。

そもそも沖縄の瓦は、朝鮮系のものが薩摩から入ってきたものが最初。瓦は高温で焼けば焼くほど赤から黒色に近づいていき、それに応じて質も向上します。
朝鮮で作られた瓦は、寒い気候に耐えられるよう、しっかりと焼き込まれた黒に近い灰色の瓦でした。この瓦の時代が何百年か続いた後、今度は中国の福建省系の赤い瓦が入ってきます。中国のなかでも南方の、いわば沖縄と紀行風土がほぼ同じだった福建省系の瓦は、いつしか黒瓦を抑えて沖縄の瓦として定着していきました。こうした歴史のなかで、首里城は幾度となく台風に見舞われ、壊れて修理が繰り返されます。

「つまり、黒い瓦と赤い瓦がごっちゃになって使われていた時代があった。だから昔の先輩たちは、黒という人もいれば赤という人もいる。みんなそれぞれの記憶しかないから、色の記憶もごちゃ混ぜになってるのさ」。
奥原さんたちが調べた結果、黒瓦は120年前にすでに焼かれなくなっており、首里城の復元にあたっては、120年前の形式に戻そうということで赤瓦が使われたそうです。
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